【私小説】息の長い蚊と夫の長い指

今年の蚊は息が長い。残暑が厳しいからだろうか。

 

夫は庭から戻ると「かゆい、かゆい」と言う。

 

蚊取り線香は焚いているのになあ」が決まり文句のように続き、虫刺されの薬を塗る、までがワンセットだ。

 

「ねえ、ぬってよ」

 

紅茶を飲み終え、キッチンで手を洗っていると、夫が立っていた。

 

手には虫刺されの薬。

 

「縫ってよ」ではなく、「塗ってよ」か。

 

さきほどまで、くるぶしやら二の腕やらに塗っていたはず。はて、どうしたのだろう。

 

首をかしげていると、夫は「喉仏のあたりと肩の裏側を刺されたと思うんだけど、どう?赤くなっている?」と尋ねてきた。背中を何とか見ようとする姿勢だ。

 

窓から差し込む夕日のせいか、肌全体がほんのりオレンジ色になっていて、判別しにくい。赤いといえば、赤いのだが。

 

「よく分からないけど、刺されていると言えば、刺されているかな」

 

「うん、かゆいから塗ってよ。患部が見えなくて、どこに塗ったらいいか、自分ではいまいち分からんのだよ」

 

「分かった」とうなずき、塗り薬を受け取ろうとすると、夫は「違うよ」。

 

はて、どうしたのか、と首をかしげた。私が塗らずして誰が塗るというのだ。だって夫は患部が見えないと言っているんだから。

 

夫は言う。「違うんだよ。僕が僕の指に薬をつけるから。君は、患部に僕の指を接触させたらいいんだよ。だって、そろそろ夕食の支度だと言って手を洗っていたじゃないか。そんな人の指を使って自分に塗らせるなんて、僕はそんな傲慢な人間じゃあないよ」

 

「はあ」。夫の言う通り、夫の指を動かして、薬を塗り終えた。

 

夫は「あー、良かった。ありがとう」と感謝した。

 

私は「どういたしまして」と応じ、もう一度手を入念に洗って、夕食の支度を始めた。