むすめが「ブログを見せて。子どもには見せないなんて差別だ」と訴えたのをきっかけに夫婦会議が始まりました。
「A’」
切り出したのは妻です。
「昨日、むすめが『大人はよくて子どもはダメなのは差別』って言ってたの、あの指摘はその通りだよね。ブログにはむすめの話題も含まれるから見せたくないという親の勝手な理屈なわけだけど、なんで見せたくないかって言ったら、本人の同意なしに書いているからだよ。まだ赤ちゃんだったら、気にしなかったかもしれないけど、もう字も読めるし、パソコンも使えるからね。この話がこんなにも早く来るとは。ブログを始めてまだ2週間も経ってないのに」
夫も神妙な表情です。
「『本人の同意なしでも書いていい』という立場に立つと、『現実のむすめは【A】とすれば、ブログの娘は【A’(エーダッシュ)】』という論理が根拠になるわけよ。【A】と【A’】は別の存在と考えれば、子どもに内緒で書いてもいいと考えられるんじゃない?」
妻は「エーダッシュ!そうだよ!」と手をたたいたものの、思いついたように方向転換しました。
「漫画家のトラブルが話題になってたじゃん。たしか、子どものエピソードでエッセイ漫画かなんかを発表していたら、今では親子で確執があるとかいうニュースがあったよね。【A】と【A’】の論理は、子どもには通用しないってことなんじゃない?」
社会性や公益性
夫は「あったね。どっかで読んだことある」とうなづき、腕を組みました。
「そうなると、ブログに限らず、新聞やテレビなどマスメディア全体の話にもなってくるのかね。なぜその記事は社会的に成立するかっていう。例えば、障害者の子どもがいて、そういった家族の事情を公表して福祉関係の記事を書く新聞記者がたまにいるじゃん? その記者が子どもや家族の理解を得ているは分からないけど、『この障害者にやさしくない日本社会を変えたい』という動機があると仮定した場合、仮に同意がなくても、社会性や公益性に優れているから、その記事は受け容れられるという考え方はできるのかな。完全に仮の話だけど」
妻が「なるほど」とうなずきつつ、尋ねます。
「じゃあ、うちらがむすめの意向を無視してブログを書ける論理は?」
夫は笑いながら答えました。
「福岡タワーの開業時間を間違えた話やドクダミ駆除に苦労している話では社会性も公益性もないに等しいから、同意なしでは厳しいんじゃないかな。カーステレオのチャンネル争いなんて、公益性ゼロだよね。このブログが多少の小遣い稼ぎになればいいなあという希望がなくはないけど、こんなアクセスが少ない状態では、『ブログで稼いでいい暮らしさせてやるんだから黙っとけ!』と突っ切ることもできないよねえ。まあ、仮にものすごいアクセスがあったとしても、論理としては乱暴だけど」
むすめの勝ち
夫がまくし立てるのを聞いている妻は愉快そうです。
「じゃあ、むすめの勝ちじゃん。むすめは毎日のように、融通の利かない教師の話や嫌な同級生の話をしているけど、それを具体的に書くのも違うもんね」
夫もうなずきます。
「教師の話やいじめっ子の話は公教育とかの視点で『世直し』に、という言い方もできそうだけど、ブログに書く前に現実の対応しなさいよって話になるよね。学校に突撃するとか。それでもラチがあかないとなったら、逆にSNSで発信するという手法は最近はよくあるみたいだけど」
妻が苦笑します。
「じゃあ、ブログ書けなくなるねえ」
夫は大笑いしました。
「書けなくなるでは困るよ。始めたばかりなのに。基準を考えましょうか」
「そもそも見せたらいいじゃん。本人の同意を得るのが一番正しいよ」
「嫌だよ!文部科学省ではGIGAスクール構想とかなんとか言って、『1人1台タブレット』の時代だよ!学校でブログを見てるのを友達や教師に見られてしまったら、大恥だよ!『また旅ってなんだ?』ってなるよ」
「同意を得ないなら、本人が嫌がりそうなことは書かないようにしたら?」
「本人が嫌がることって言っても、それは主観だからねえ。あくまでも、親が考える『むすめの嫌がること』にすぎないよねえ」
「さっきの新聞記事の話で想定されるような社会性や公益性はうちのブログにはないんだから、少なくともむすめにいつ見られてもいいように書くしかないんじゃない。親子トラブルになったら本末転倒だよ」