(↑前編から続く)
通されたのは掘りごたつ付きの個室。
念願のフグ御膳だ。注文が届くまでの間、妻がむすめを膝に乗せ離乳食とミルクを与えると、瞬く間に容器が空になった。
「すごい食欲だね」と夫婦で驚いていると、むすめの「覚醒」が始まった。
妻の膝から降り、畳を猛烈にハイハイし始めたのだ。
これまでのハイハイとは様子が違う。リズムもスピードも。妻も夫も長旅と観光で疲れており、制御もままならない。
むすめは親の事情など露知らず。掘りごたつに突進していく勢いで、底にいつ落ちてもおかしくない。
せっかくのフグ御膳だから落ち着いて食べようと個室を取ったのに、夫婦で代わる代わる子どもを羽交い絞めにしないと、食事もできやしない。
「覚醒」は翌日もとどまることを知らず、さらに勢いを増した。
土産店が集まる「海峡プラザ」は特に鬼門だった。
店を一歩出ると目と鼻の先に海が広がっているからだ。
子どもは抱っこもベビーカーも嫌がり、床に足を着けると、すかさずハイハイを始める。
「また始まったか」と、ちょっと目を離すと、出入り口に向かっている。
お土産の品定めは中止して、捕まえるしかない。
先には海しかないんだから。
海に向かう子どもを捕まえ店内に戻し、買い物を再開。しかし、むすめはすぐにハイハイを再開したため、買い物を中断。海に向かうむすめを捕まえ店内に戻し、買い物を再開。やはりむすめはすぐにハイハイを再開したため、やはり買い物を中断。海に向かう…の、無限ループに陥った。
夫婦は息を切らし、買い物を諦め、「門司港タワー」に移動した。
高さ103メートルから見る関門海峡は圧巻のはず。さすがのむすめも高さと絶景にびびり、ハイハイをやめるだろう。
しかし、夫婦の希望的観測は見事に打ち砕かれた。
むすめは薄汚れた業務用カーペットを縦横無尽にハイハイを続けた。
門司港レトロ旅行から10年近く経った。
あの日のことを思い出すと、妻は「フグの味なんて憶えていない」と嘆き、夫も「ひれ酒を頼んだかどうかも憶えてない」は放心状態に戻ってしまう。
あの日、むすめはなぜ「覚醒」したのか。肝心のむすめに聞いても、答えはいつも「憶えていない」だ。