【ベルリン旅行記】シュレーディンガーの宿(前編)【私小説】

「あ~あ、本当ならもっと海外旅行に行ってたはずなのに。やれコロナだ、やれ円安だって」

 

夫が旅行のことでぼやき始めると、たいてい、話題は二つに絞られる。

 

昨今の金融・財政政策に対する不満か、あるいは独身時代の海外旅行で経験した珍事か。今日はどちらかだろうか。

 

「そう言えば、20年前ぐらいかな、初めてベルリンに行った時のことって話したことあったっけ?結婚前のことだけど」

 

今日の正解は後者の方だったか。聞いたことがあるかもしれないし、聞いたことがないかもしれない。憶えているかもしれないし、憶えていないかもしれない。

 

こういう時はたいてい、「聞いているうちに聞いたことがあるような気がしてくる」が正解なのだが、私は、こういう時はたいてい、口には出さない。ただ一言、「なんだっけ?」と促す。

 

すると、夫はしゃべり始めた。思った通りだ。


「う~ん、どっから話そうかなあ。この話は複雑でねえ」

 

しゃべり始めたと思ったら、この調子だ。落語でいう枕のつもりか。夫は思案顔。そして、にやりとした表情に変わった。話の筋立てが決まったようだ。

 

「信じられないような話だから、もう結論から話すことにしたよ。えっとね、駅のインフォメーションで紹介された宿に行ったんだけど、その住所に、その宿はないんだよ。いや、宿がないと断言していいのかどうか、実は今でもよく分からないんだけどね」

 

 

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