うちの子どもはなぜかケガをしやすい。
屋内で言えば、ソファーで大暴れしていたらなぜかよりによって首から落ちてしまう。走り回っていたらコーナークッションを唯一つけていない家具の角になぜかよりによって顔をぷつける。
屋外で言えば、公園でギリギリ飛び越えられそうにない植栽をなぜか飛び越えようとして案の定転倒し膝を強打する。集団登校中にある坂道でなぜか後ろの子にランドセルをつっつかれて転倒し肩を強打したこともある。
大人からすると「なぜか」なのだが、子どもには理由なんてないだろう。「なぜか分からないけどやってみたい」のだと思う。そういう衝動のままに行動することも大切だろうから、できるだけ制限を設けず、距離を保ちつつ致命的な事態にはならないように注意深く見守っている。
ただ、児童館や公園で他の子どもを観察していると、うちの子どもよりもはるかに危険な振る舞いをしているのになぜかけがしない子どもをよく見るので、世の子どもは「ケガしやすい子ども」と「ケガしにくい子ども」の2種類に分かれるのではないかと思ったりもする。
先ほどは登校中のケースを挙げたが、学校や習い事など親の目の届かないところでは、究極的には運に任せるしかない。
やりにくいのが本来は親の目が届かないのに、届いてしまうケースだ。
例えば参観日。
随分前の話だが、幼稚園で運動会練習を見学したことがある。
屋内ホールに複数のクラスが集まり、園児たちは歌やら踊りやらを合わせたり、整列の練習をしたりしていた。
集団の取り組みが苦手と園児もいて、わたしたち夫婦はうちの子が一生懸命に練習する様子に心で拍手を送りつつ、その園児の動きも横目でチェックしていた。
練習に参加せず床に寝転んでいたと思うと、ダッシュしてジャンプを始める。先生方はその園児に時折声をかけつつも動きを止めるでもないので、「普段からこうなのだろうな」と受け止めていた。「できるだけ制限を加えず衝動のままにさせてあげたい」というような、うちの考えとも通ずるところもあるのかな、なんて受け止めていた。
そんな感じで想念を巡らせていると、突然、ダッシュの方向が変わった。その園児は、体育座りをしている子どもたちに向かってダッシュし、まるで飛び蹴りをするように子どもたちの頭上を飛び越えたのだ。
「飛び蹴り」は4、5回繰り返された。
うちの子どもの隊列ではなかったのが幸いと言えば幸いだったが、「もしそうだったら…」の想像を禁じ得ず、夫婦で「延髄斬りを決められていたかもね…」と肝を冷やしたものだ。
ちなみに、その園児は参観の時間帯、誰にもケガをさせなかった。飛び蹴りし着地した際、別の園児の右手指を踏んだように見えたことが一度だけあったが、騒動にはならなかった。
世の子どもは実は、「ケガさせやすい子ども」と「ケガさせにくい子ども」にも分かれるのかもしれない。
もちろん、ケガを「する」「させる」要因は、運動神経や発達の具合などさまざまだと思うが、運命論的なものもあると思えてならない。
あの園児は「ケガさせにくい子ども」だったのだろう。
やれ水の事故だ、やれ交通事故だ、やれ車内置き忘れだ、やれ虐待だ、と子どもが不幸にも亡くなる悲しいニュースが絶えないが、「ケガしやすい」うちの子どもが、「ケガさせやすい子ども」あるいは「ケガさせやすい『元』子ども」と出会わないよう願うばかりである。