安室奈美恵さんのサブスク音源が消滅し騒ぎになっているらしい。
わが家は騒動とは無縁だ。
なぜなら夫を中心に「CD派」だから。
このブログで言及したyellow magic orchestraもdemon albarnのマリ音楽プロジェクトも久石譲もすべてCDで持っている。Carlos Kleiber指揮の歌劇「椿姫」はもちろん、むすめの好みがきっかけで聞くようになった星野源もCDだ。
しかし、CD派は近年、居心地の悪い思いをしてきた。
背景にあるのはもちろんサブスクの隆盛である。
夫が勤務先で「サブスク派」から白眼視された逸話は何年経っても語り草だ。
「spotifyやyoutube musicでなんでも聞けるのにわざわざCDを買うなんて信じられない」
「サブスクではレコメンド機能があるので趣味の幅が広がる」
「CDは全部捨て、サブスクに切り替えた。部屋が広くなり、いい断捨離になった」
「わざわざCDに3千円出すなんて『お布施』だ。そこまでして特定のミュージシャンを支えてあげたいのだったら好きにすればいいけど」
そんな時、夫は帰宅後、妻に「いやあ、時代の変化を感じるねえ」としみじみ語るのだ。
「先輩や同僚はそう言うけどさあ、サブスクの圧縮音源よりもCDの方がいい音で聴けるんだけどねえ。でも、これは限られたお金を何に使うかという話だからね。価値観の違いだからね。ポケモンゴーに課金したい人はすればいいと思うわけよ。ポケモンゴーに課金システムがあるかなんて知らないけどさ。え? その意見を先輩たちに言ったのかって? そんなの言うわけないだろう。僕は多様性を認めるタイプだからね」
壁を埋め尽くすCDコレクションに苦虫をつぶしている妻も今夜は夫の味方。
「あなたほどCDを買わなくてもいいけど、私もCDを捨てるのはやりすぎだと思うな。サブスクリプションというサービスは『形』が何もないものにお金を払うってことでしょ? サブスクの会社が潰れたらどうするんだろうね」
「そうなんだよ。音楽は『美』だよ。やっぱり『美』に『形』が全くないのは不健全なんだよ。おなじ『美』である絵画をサブスクで楽しめるかい? 美術館で見たいだろう? 海外の美術館に気軽に行けないとしたら、そうだな。画集をめくりたいじゃないか」
「あんた、その美術館の例えを音楽に置き換えたら『コンサート』になるんじゃない? サブスク派は『美』はCDではなく『コンサート』や『フェス』でしか体験できない、という主義だとしたら、その例えでは論破されてしまうよ」
「あら、君、それは椎名林檎さんで言うところの『だって写真になっちゃえばあ、あたしが古くなるじゃない』な世界観かね? しかし、若さの儚さを言い当てた見事な詩だよねえ。しかしねえ、しかしだよ。コンサートや美術館でしか『美』を体験できない主義なんて、儚いったらありゃしないよ。僕はCDや画集で『儚さ』を少しでも薄めたい主義だねえ」
夫婦でそんなやり取りをしたのが3、4年前だった。
その間、山下達郎さんがサブスクの収益構造に疑問を投げ掛けたというニュースは流れてきたが、「サブスク派」優勢の流れは変わらなかった。
そんな時に持ち上がったのが安室奈美恵さんのサブスク音源消滅だった。
「いやあ、君の言う通りになったね。会社は潰れなかったけど、契約の関係かなんかで音源が消滅したってさ。やっぱりCDだよ。『形』あるものの勝利だよ」
夫が嬉々としていると、妻は白い目をして言った。
「あんたのCDなんてわたしにはごみだよ。あんたが先に死んだら真っ先にメルカリで売るよ」
夫は「人生は儚い」と思った。
夫は「妻の目つきは安室ちゃんのアルバム『PLAY』のジャケットに出てくる警帽をかぶった婦警のようだ」と思った。